
「もっと人と上手に関わりたいのに、なぜか上手くいかない」——そんな思いを抱えながら、自分を責めてしまってはいないでしょうか。
ASD(自閉スペクトラム症)の中核症状である、対人コミュニケーションの難しさや強いこだわりに直接効く薬は、実はまだ世界中どこにもありません。ADHD(注意欠如・多動症)には複数の治療薬があるのにも関わらずです。
このアンメットニーズ(満たされていない医療ニーズ)に、20年近く向き合い続けているのが、浜松医科大学の山末英典教授です。当社代表の鈴木が聞き手となり、当事者・家族の切実な声とともに歩んできた研究の軌跡と、開発の最前線を伺いました。
この記事でわかること
- ASDの中核症状に効く薬が「まだ存在しない」科学的な理由
- なぜ「オキシトシン」が治療薬候補として注目されたのか
- 20年の研究で見えてきた「効果はあるのに実用化できない」壁の正体
- 「実用化はいつ?」気になる疑問への答え
約8分~10分で読めます
※本記事は、2026年3月16日にYouTubeにて公開されたKaien特別セミナーを分かりやすく編集した記事です。より詳細な内容は、ぜひ以下のウェビナー動画をご覧ください。
ASD(自閉スペクトラム症)の治療薬は誕生するのか?オキシトシン研究の最前線と「現在地」 ~浜松医科大学・山末英典教授が語る、20年に及ぶ創薬の歩みと実用化への壁~
ゲスト:山末 英典 教授 (浜松医科大学 精神医学講座 教授)
聞き手:鈴木慶太(株式会社Kaien代表取締役)
ASDには、なぜ「効く薬」がまだないのか?
まず押さえておきたいのは、同じ発達障害でもADHDとASDでは薬の開発状況がまったく違うということです。
- ADHD:コンサータ、インチュニブ、ビバンセ、ストラテラなど、日本国内だけでも複数の承認薬があります。
- ASD:不安や興奮といった「併発する症状」に対しては睡眠薬やSSRI、気分安定薬などで対応できます。しかし、対人コミュニケーションの困難や強いこだわりといった中核症状そのものに効く薬は、世界中どこを探しても存在しません。
一方、世界的には「ニューロダイバーシティ(神経多様性)」、つまりASDを病気ではなく「脳の多様なあり方の一つ」として捉える視点も広がっています。しかし、臨床医として数多くの患者と接してきた山末教授は、当事者やご家族の切実な声も痛いほど感じてきました。
遠方から旅費を自己負担してまで治験に参加する方も少なくないと語ります。「治療薬という選択肢」を用意することと、ニューロダイバーシティの立場は決して矛盾しない——それが、山末教授が研究を続ける原動力となっているのです。

ASD治療薬候補として、なぜ「オキシトシン」が候補になったのか?
治療薬候補として長年研究されてきたのが、「オキシトシン」というホルモンです。もともとは出産や授乳時に作用するホルモンですが、脳内にも作用し、愛着形成や他者への信頼関係を促す働きがあることが分かってきました。
また、点鼻スプレーでオキシトシンを投与すると、他人を信頼してお金を託す「投資ゲーム」という心理実験の成績が良くなるという研究成果が総合科学学術雑誌である『Nature(発行:2005年)』で発表され、世界的な注目を集めました。その後の解析でも、相手の表情から感情を読み取る力を高めることが判明しており、オキシトシンの効果がさらに期待されるものとなっています。
【研究の着眼点】
ここで山末教授が注目したのは、「オキシトシンが得意とする働き(表情や声のトーンのような非言語情報から気持ちを読み取る力)」と「ASDの方が日常で直面しやすい苦手さ(皮肉や冗談を言葉通りに受け取ってしまう等)」が重なっていた点でした。
| 比較項目 | 定型発達者に多い傾向 | ASDの方に多い傾向 |
| 相手の意図の読み取り方 | 表情や話口調など非言語情報を重視 | 言葉の内容(言語情報)を重視しやすい |
| 皮肉や社交辞令の理解 | 比較的得意 | 言葉通りに受け取りやすく、苦手なことが多い |
| 使われる脳の部位 | 内側前頭前野・島皮質など | これらの部位の活動がやや弱い傾向 |
言葉通りに受け取ってしまい、「冗談が通じない」と言われてしまう日常のすれ違いはASDの方には起こり得る可能性がある事象です。この非言語処理を助ける可能性があるのが、オキシトシンでした。

20年の研究で見えてきた「3つの意外な発見」と「壁」
山末教授らのチームは2009年から研究を重ねる中で、科学者たちを驚かせる事実と次々に直面しました。
① 単回投与で脳の使い方が「定型発達者」に近づいた
オキシトシンを1回投与してMRI撮影をしたところ、もともと活動が弱かった「内側前頭前野」の働きが強まり、表情や声を使った判断パターンが増加しました。その結果から、オキシトシンにより、脳の使い方が定型発達者に近づく=社会的コミュニケーションの困難への治療効果を示唆するデータが得られました。
報道当初は「脳の欠陥が分かった」という偏見(スティグマ)的なネットの反響もありましたが、解決策(薬)の可能性を示すと「ぜひ子どもに受けさせたい」というポジティブな声へと変わっていきました。
② 6週間続けたら、逆に効果が弱くなった
次に実際の社会生活での効果を見るため、6週間の反復投与試験を行いました。対人場面での関わり方は有意に改善したものの、研究チームを悩ませる課題が発覚します。
なんと、「6週間続けるより、1回だけ投与した方が効果が強かった」のです。この結果には山末教授も意外な結果だったと述べており、継続すれば効果が積み重なるという予想に反し、繰り返し使うと効果が減弱するという新たな壁が突きつけられました。

③ 社会性ではなく「こだわり」に効果が出た
106名規模の大規模治験では、メインの「対人コミュニケーション」で偽薬(プラセボ)側にも期待感による改善効果が出てしまい、明確な差がつきませんでした。
しかし一方で、予想していなかった「常同行動や限定的興味(こだわり)」や「相手の目元を見る時間」に、オキシトシン群だけ明確な改善効果があらわれたのです。また、反復投与によって、一過性の効果が弱まっていたということが支持されました。
なお、副作用は重いものはなく偽薬と同等でしたが、胸の張りと痛みを訴えたケースがありました。オキシトシンには乳房に作用する性質があり、遺伝的にその感受性が高い方の場合、一時的にこうした副作用が生じ得る可能性が考えられます。

新スプレーの開発と「用量のスイートスポット」
プラセボ効果を抑え脳に届きやすくするため、全国の大学と共同で「改良型点鼻スプレー」を用いた試験が行われました。1日3・6・10・20単位で比較したところ、ここでも大きな発見がありました。
【ここがポイント】
薬は多ければ効くわけではなく、「1日6単位」が最も効果が高い傾向が見られ、量を増やすとかえって効果が弱まる「U字型用量反応関係」を示したのです。
この「量を増やせる」という新スプレーの長所を生かせない結果と、最終段階(第3相試験)にかかる莫大な費用から製薬企業が躊躇し、現在この世代の薬剤開発は一時的に足踏み状態となっています。

講演を終えて:💡質問タイム(Q&A)
ここからは講演を終え、当社代表の鈴木やセミナー参加者から寄せられた率直な疑問に、山末教授が答えた対話の様子を一部抜粋してお届けします。
Q:抱きしめるというような、自助努力によりオキシトシンを増やすことは可能ですか?
A:人によっては効果が期待できる場合もありますが、全員に当てはまるわけではありません。
ASDの背景は一人ひとり異なります。受容体がうまく働かない方、幼少期の感覚過敏でハグなどのスキンシップ自体が少なくオキシトシンが十分に働かなかった方もいるかもしれません。後者であればスキンシップで改善する可能性がある一方、受容体の働きに問題がある方には、分泌を増やすだけでは効果が出にくい可能性もあります。
Q:なぜ治験の対象は「成人・男性・高機能」だったのでしょうか?
A:1時間以上のMRI測定に耐えられることや、子宮・乳房への影響が少ない男性から始める安全上の理由から対象を絞っていました。まずは純粋な効果を確かめ、その後に子どもや女性へ広げる計画でしたが、現在はその手前で止まっています。
Q:効果を長続きさせる工夫はあるのでしょうか?
A:他領域のホルモン治療を参考に「毎日投与」ではなく「3日に1回投与」といったスケジュールの最適化を検討中です。将来的には、人と会うイベントがある時だけ使うような柔軟な使い方が期待されています。
Q:ズバリ、実用化(新薬誕生)はいつ頃になりそうですか?
A:『自分があと現役が13年なので、その間に成し遂げられれば』と山末教授は語ります。新しいスプレーで進める場合も初期試験からのやり直しが必要となりますが、反復投与のメカニズム解明や効きやすい人を判別する遺伝子解析など、次の一手は着実に進んでいます。
山末教授からのメッセージ
セミナーの最後、山末教授は研究者としての葛藤を率直に語ってくださいました。
『海外の学術誌に論文を出しても、ASDに関して「治療」という言葉を使うのはおかしいのではないか、「症状」という言葉もおかしいだろう、と指摘されるんですよね』
治療薬開発そのものの是非について、当事者や家族の考えを直接聞いてみたいという思いを、山末教授は繰り返し口にしていました。ADHDには治療薬があり、治療すること自体は特に議論にならない一方、ASDに治療薬という選択肢が生まれれば、その議論の質そのものが変わっていくのではないか。
『確実にやっぱり治療があれば、役に立つ場合はあると思いますので、その選択肢を作っていくことに関しては、むしろ議論を進める(べき)と思ってます』
ライフワークとなった研究を、今後も粘り強く続けていく——そう締めくくった山末教授の言葉には、20年という歳月を経てもなお衰えない研究に対する情熱が感じられました。

まとめ:Kaienとしてお伝えしたいこと
今回のセミナーを通して見えてきたのは、ASD治療薬の開発が「あと一歩」のところまで来ながらも、生体の複雑な反応と向き合う繊細な壁にぶつかっているというリアルな現在地でした。
- 中核症状に効く薬は、2026年現在、国内外どこにもまだ承認されていません。
- オキシトシンは「こだわり」や「視線・表情」に改善効果が見られる一方、用量や投与スケジュールの最適化という課題と向き合っています。
- 実用化には時間がかかりますが、遺伝子解析やスケジュールの最適化など次の一手が動き出しています。
大切なのは、この研究が「ASDの症状を改善して“普通”にする」ことだけを目指しているわけではないという点です。特性として理解し社会が変わっていくことと、困りごとを和らげる選択肢を持つことは、十分に両立できます。
Kaienでは、薬の有無にかかわらず、今この瞬間の「働きづらさ」「生きづらさ」に寄り添う就労移行支援・自立訓練(生活訓練)・リワーク支援などのサービスを提供しています。
未来の選択肢としての治療薬研究を見守りながら、今できる工夫やサポートを、これからも一緒に探していきたいと考えています。



